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番頭力!戦国ナンバーツー列伝
「尾張名古屋は城で持つ」と言いますが、企業はナンバーツーで持つ、と言っても過言ではありません。
とかく経営者という人種は往々にして「夢みがち」な生き物。高い理想を掲げ、少年のように目を輝かせて大風呂敷を広げるのは得意ですが、それを実作業に落としこんだり、あるいは既存の事業の無駄を省いたり、より効率化したりといった作業は大の苦手、ずっと夢を見ていたい永遠の18歳です。しかしながら、そんなドリーマーが1人で采配を振るっていたら、あっという間に会社は潰れてしまいます。トップの構想を理解し、時に批判し、実際の事業に落とし込んでいくナンバーツーなくしては、どんなにすぐれた事業構想も画餅で終わってしまいます。
よく企業に準えられる軍隊では、
「将」=全軍の方針(戦略)を決める人、
「将校」=どうやって戦略を実行するか(戦術)を決める人、
「兵」=戦術を実行する人、と職掌が明確に分かれていますが、特に将を補佐する高級将校については「参謀」として、飾緒(しょくちょ)の着用が認められています。
↑右肩から胸元にかかるモールが飾緒、参謀の証(画像出典:Wikipedia)
さて今日の主題は、戦国時代のナンバーツーについてです。
こと戦国武将を題材にしたスマホゲームなどでは、武威・武力の高い猛将ばかりがもてはやされがちです。
しかしながら、古今東西、戦の勝敗というものは、段取り(準備)の段階で九割が決していると言って過言ではありません。
つまり華々しく戦場を駆ける武将もさることながら、兵を集める徴兵と物資を届ける兵站、そしてそれらの動員を可能にするナンバーツーこそ、戦の雌雄を決する影の主役、家を支える大黒柱と言えます。
本日は、わたくしの管見と偏見による、戦国屈指の番頭力を誇る「ナンバーツー」を5人、あげてみたいと思います。
豊臣秀長
秀吉の弟。偉大なるNo.2。「豊臣は竹中・黒田の二兵衛ちゃうんかい!」というツッコミもあるかと思いますが、わたくしはこの、義と和を以て周囲の信望を集めた弟こそ、豊臣家のナンバーツーだと言いたいです。温厚で誠実、さりながら決断は大胆、時に将たる兄に諫言することを厭わず。
一般にトップが偉大すぎると、取り巻きもなかなか直接意見することが憚られるようになります。しかしながらこのように温厚で人望があるナンバーツーがいれば、組織の風通しが格段に良くなります。
村井貞勝
織田家臣。癇癪MAX&冷酷度MAXな主君・信長のもとにあって、良識を以って慕われた老家臣。宣教師ルイス・フロイスは貞勝を「都の総督」と呼び、「尊敬できる異教徒の老人であり、甚だ権勢あり」と評しています。このように周囲の信頼を集める重鎮が君臨している企業は強いです。特にスタートアップでは社員も若手が多いので、小事に一喜一憂しがち。
重鎮が「組織のアンカー」の役割を果たせれば、組織はより盤石になります。
片倉重綱
伊達家臣。5人の中で一番「やべえ人」。若き主君・伊達政宗が右脇腹に膿が溜まって痛いと訴えたところ、馬屋からでっかい鉄の塊をチンチンに焼いて持ってきて、まず自分の右腿にジュー!!!「殿!めっっっちゃ熱いけど、死ぬほどではありません!」そして政宗の腹に灸として刺して治療(政宗より本人の方が火傷が重症で後遺症が残った)。あるいは幼少期の政宗が、既に失明した右目の疱瘡を気にしてるのを見て、「殿!わしがその右目をくり抜いてさしあげます!(グサー」(これは挿話の説あり)、いずれにせよ、やべえ人。ただ、主君・政宗自身が筋金入りの「超絶やべえ人」だったので、この人でなければ制御できなかったという説も。
太原雪斎
今川家臣。闘う坊主。名将・今川義元を幼少から補佐し、東海一の弓取りと言われるまでに導いた。
漫画「センゴク外伝 桶狭間戦記」には、室町幕府の威光がかかった「守護大名」(いわばボンボン)である今川義元が、太原雪斎の補佐の元で、幕府を見限り「戦国大名」へと独立していく様子が魅力的に描かれています。今川義元ほどここ数年で再評価された武将はいないと思います。これまでの義元といえば、お歯黒にでっぷりとした肢体、京文化にかぶれて輿に乗って進軍する愚将というものでしたが、今や「信長の野望」でも義元はかなりイケメンに描かれています。それくらい有能な武将なのです。しかし、桶狭間では信長の乾坤一擲の奇襲に敗れました。雪斎が生きていれば桶狭間で義元は死ななかったとも言われています。そうすれば信長の天下も、そうなれば豊臣・徳川の治世もありえなかったと言えます。
香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす)
長宗我部家臣。”漢字多すぎやろなに人やねん!”と言うなかれ、土佐(高知)人です。。圧倒的歴女人気を誇る長宗我部元親を支えた、通称・四国最強の外交官。四国のちっこい大名である長宗我部氏は、頑張って頑張って、なんとか四国を統一します。しかしながら統一を果たさんとする頃には、天下はすでに織田信長の手中に収まろうとしていました。現代では京(当時の日本の中心)から四国は、明石海峡を渡ればすぐの目鼻先ですが、当時の四国は京からすれば遥か彼方の外国、長宗我部氏はそんなはるか彼方の国を統一したちっこい大名でしかありませんでした。そんななか親泰は外交に奔走し、織田家そして信長斃れたあとの豊臣家とよしみを通じ、中央とのパイプを作り続けました。長宗我部氏が急速に没落するのは、親泰が亡くなってすぐあとの事です。
名将の陰に必ず名参謀あり
名監督の陰に必ず名ヘッドコーチあり
名経営者の陰に必ず名番頭あり!
です。
当社、絶賛番頭募集中です!!!(笑)